北アフリカのチュニジア、アルジェリア、モロッコを総称して「マグレブ」と呼び、それは「陽の沈むところ」という意味だそうである。 その「陽の沈むところのチュニジア」へ、「陽出ずる国の日本」からパリ経由で行ってきた。
チュニジアの国土は日本の半分だが、首都チュニスのある北部は小高い丘に覆われた山岳地帯、中部はオリーブ畑の多い草原地帯、南部は大塩湖や砂漠が広がる乾燥地帯という変化に富んだ国である。
旅は首都チュニスから始まり、アルジェリアとの国境に近いトズール、サハラ大砂丘への入り口であるドゥーズ、砂漠のオアシスにあるクサール・ギレン、北アフリカの先住民族であるベルベル人が今も穴居住宅に住むマトマタ、チュニジア第二の都市といわれるスファックス、世界一保存状態の良いローマ時代のコロセウムがあるエル・ジェイム、北アフリカにおけるイスラム発祥の地ケロアン、そして「サヘルの真珠」と言われチュニジアを代表する一大観光地のスースであった。
簡略に言えば、北のチュニスから西側を南下しサハラ砂漠に行き、そこから東側に移行して北上しチュニスに変えるコースで、一応はチュニジアを一周してきたのではないかと思っている。
旅の時はちょうどラマダン(断食)にあたり、日の出から日没まで一切の物(タバコでさえ)を口にしない彼等は、夕暮れになると「さ〜、メシだ!」とばかりにメディナ(旧市街)の商店さえも観光客など目もくれず早々と店じまいしていた。
サハラ砂漠。 世界最大の砂漠で面積一千万平方キロ(日本37万平方キロ)。
そのホンノ片隅を、ラクダに乗って散歩(?)してきました。
旅の初めは、世界文化遺産のカルタゴにあるビュルサの丘(Acropole de Byrsa)。
ローマによって滅ぼされた、フェニキア人によるカルタゴの中心があった丘。
ビュルサとは「牛の革」という意味だそうで、フェニキアの王女エリッサがこの地に都市を建設しようとした時「牛の革」1枚分だけと言われ、王女は皮を切り裂き長い紐にして広い領土を得たとのこと。
トフェ(タニトの聖域)( Tophet Sanctuaire Tanit)
当時カルタゴでは、幼児を殺して捧げる習慣があったそうで、その小さな墓石が無造作に置かれていた。
一方で、制圧したローマがカルタゴの非情さを宣伝するためという説もあるとのこと。
どちらにしても幼児が殺されたわけであり、 何故か手前のタンポポにピンが合い墓石がぼやけてしまった。
首都チュニスに移動。シディ・ブ・サイドの街並。
白とチュニジアン・ブルーの建物。この色は法律で定められている。
因みにシディ・ブ・サイドの名の由来は(蔵書によると)、1270年フランスの国王ルイ9世は十字軍を率いてチュニス攻略中に亡くなった。
だが、彼は死んだと見せかけて実はイスラム教に改宗し、ブ・サイドと名を変えてベルベル人の美しい娘と結婚し聖人(シディ)となり余生をこの地で送った。
この説は、実在した聖人との話を混ぜたものらしいが、拙者はロマンチックでいいなと思っています。
チュニスのメディナ(旧市街)の入り口であるフランス門。
この門の向こうが旧市街、こちらがチュニジア建国の父と言われた元大統領の名をとったバビブ・ブリギバ大通り。
メディナ狭い路地に多くの商店が並び、彼らは日本語で叫ぶ。「ニッポンガンバレ!」
その他の呼び声もあったが、誰に教わったのか究極の呼び声。
「サトノギリノハハニ!」(里の義理の母に!)。これには参った。
首都チュニスから空路「ローマン・アフリカの果て」と呼ばれた、アルジェリア国境に近い大オアシスの地トズールに移動。
宿泊した「パーム・ビーチ・パレス」。
このレストランの隣の席で、俳優のジャン・レノがパクついていた。
トズールからメトラウイ(metlaoui)に行き、セルジャ渓谷を走る観光列車レザールージュ(赤いトカゲ)に乗る。
メトラウイから鉱石採掘現場であるセルジャ間の折り返し。
往復32キロだが、景観の良い場所では停車するので約1時間半の行程。
観光列車だけに豪華にできていて、客車は1両づつ異なり革張りの椅子がどっしりと置かれた車両や、マホガニー材で作られたバーの車両などがある。
宿泊したメトラウイのホテル。
4WDにてアルジェリアの国境に近い、山岳オアシスのタメルザ渓谷へ向かう。
グランド・カスカド(大滝)。 落差15mほどの滝でも、砂漠の中にあれば「世界最大の砂漠の滝」である!。
ここが晴天でも上流のアルジェリアで大雨が降れば、いきなり鉄砲水が押し寄せてくるとのこと。 (アルジェリア国境 のmides・ミデス)
宿泊したタメルザ・パレス。
付近を流れるワジ川の洪水で壊滅的な被害を受け、この村には人は住んでいないとのこと。
(オアシスの村chebika・シェビカ) 映画「インディアナ・ジョーンズ」の撮影場所とのことだが、映画は観たものの分からなかった。
1997年に、ここで「インデアナ・ジョーンズ」が撮影されたという看板。(クサール・ハッタダ)。
ダース・ベーダーが、子供の頃に過ごした場所として撮影された場所とのこと。
その近くの食堂で、暇なのか居眠りする店の旦那。
広さ5千平方キロという広大な塩湖。(chott el jerid・ショット・エル・ジェリド)
塩で作った「カルタゴの遺跡」。、、、ではないと思います。
サハラ砂漠のオアシス「クサール・ギレン」に向かう。標識のない道なき道、レンタカーでの個人行動は無理と痛感。
オアシスに向かう途中の喫茶店。親父さんは愛嬌がありミントティーも美味かった。物事は外観で評価してはいけないことを再認識。
やっと、クサール・ギレンに到着。砂漠の真ん中にある、4つ星のベドウイン風のテントロッジ「パン・シー」。
写真はドローンではなく、展望台から撮ったもの。中央に立つ Pami。
その テントロッジの内部。床には厚い絨毯、シャワー、エアコン、それに水洗トイレ付き。
翌朝の風景。客を待つラクダ。
サハラ砂漠のホンノ片隅をサンポ。
ネイテイブの少年と pami。
翌日の朝、展望台から撮ったもの。砂漠を行くのはネイティブではなく、我々のような観光客 。
ベルベル人伝統の、穀物倉庫や住居として使われていたクサール群。現在は無人とのこと。
空は正にチュニジアンブルーである。
少数のベルベルの人たちが、今でも昔ながらの穴居住宅に住んでいた。冬は暖かく夏は涼しいとのことである。(matmata・マトマタ)
亡くなられた人たちの墓。生活は地下で、死者は地上で。我々が死者は天国にいると思っていることと同じ。
宿泊した、地下三階建ての穴居式のホテル「ディアール・エル・バルバール」。
ホテルマンが手を振ってくれた(左端)。
部屋の入り口はこちら。
そして、部屋の内部。ダブルベッド、冷暖房エアコン、水洗トイレ、それにバス付き。
一応は窓があるが、向こうは壁面。何のために窓をがるのかは、今もって不明なり。
マトマタからスファックスに行き、そこからエル・ジェイムの巨大な円形闘技場に行く。(El jem・エル・ジェイム)
本家ローマにある遺跡よりも保存状態が良いといわれる巨大な円形闘技場で、大きさは縦149m、横124m、高さ36m、アリーナの直径65m、3万5千人を収容したという。
尚、アリーナとは「砂」という意味だそうで、戦いにより流された血を素早く消すために、競技場に砂がまかれていたことからだそうである。
闘技場の地下道。
ここを剣闘士や奴隷、それに剣闘士と戦うトラやライオンがアリーナに上がっていったのだ。
この暗い回廊を歩くと、剣闘士たちの武具の触れ合う音、猛獣の唸り声、そして奴隷たちのうめき声が聞こえるようである。
ローマ時代の水道橋。(zaghouane・ザグーアン)。
水源であるここザグーアンから地中海に面したカルタゴまで、全長132キロの長さを誇る世界最長のローマ遺跡。
現在に残る部分だけでも20キロあり、今も一部は使われているとのことである。
水源はわずかな高低差を利用して自然に流れるように設計され、地表が高いところは地下にし低いところは端にした。
長距離にわたり穏やかな傾斜を造らなければならず、高度な測量と土木技術が必要であった。
そしてまた、アフリカ最大級の規模を誇るローマ遺跡。(dougga・ドゥッガ)。
紀元前4世紀にカルタゴからフェニキア人が来る前まで、ヌメディア人がここに住み王国の重要な都市として栄えたとのこと。
当時の市内には、少なくとも1万人の人が住んでいたという。
チュニスから106キロ西南、標高600mの丘にある。
俗に言うローマ字なら何とか分かりますが、ホントのローマ字は分かりませんでした。
追記。 チュニスのバルドー博物館。過日のテロによる犠牲者に深い哀悼の意を表します。 この三枚の絵は、事件後に貼り付けました。
7月 222013
最終更新日: 2019/05/07